2012年10月20日土曜日

日本の書道教育

——今回立ち上がった「にほんしき」プロジェクトに限らず、デザインの仕事をしていて常々「書」は避けて通ることは出来ないと感じていました。日本語によるデザインは、独特の間の取り方や、リズムがあります。それは遡れば「書」に行き着くことになります。やはりデザイナーも「書」を理解していなくてはならないと思い、私も数年前から書に関する本も読み始めていますが、やはり現場でお仕事をしている方に直接お話しを聞くのが一番だと思い、今回お伺いしました。 

神林:最初に言っておきたいのですが、僕は書を誰かに教わったことはないし、どこかの団体に所属していたこともない。だから、ここで話す内容は必ずしも書道界で一般的な意見ではないかもしれない。それをわかった上で聞いて欲しいと思います。

——わかりました。でも、だからこそ感じられることや、客観的なご意見が聞けると思っています。一般論は本を読めばわかりますし。最初に伺いたいのは、書の教育についてです。私自身、子供の頃から書道は嫌いでした。今でこそ、デザイナーになって文字に興味がわき、書を見ても「かっこいい」と思えるようになりましたが、「嫌いだった」期間が長くて、「もったいないな」と思っています。子供の頃に興味が湧かないのには、学校の教育にも問題があるように思うのですが、いかがでしょう?

神林:それはね…、いろんな考え方はあると思いますが、字のスタンダードとは何か、というのが昔からの永遠の課題であり誰も解決できていない。中国では王羲之を柱として書ができ上がっています。王羲之の書に近いものが「良い書」であるという考えです。それを目指して練習を重ねて、そのなかから自分なりの個性を見つけ出してゆく。それは日本でも同じです。学校では見た目がきれいな字、適切な止めはね払いがある字がよい字とされています。「その通りにしなさい」と言われて頭を押さえられて「書け」と言われるから面白くないと感じてしまう。

——確かにそうですね。

神林:今でも書家の大部分は臨書といって、お手本を真似して書くことに終始しています。お手本に近づくことが良いこととされている。そういうことが日本の書道教育の根幹にあると思う。書道家は筆で作品を書くと良い字を書いても、フリーで手紙なんかを書くと途端に面白みや個性がなくなってしまうことが多いです。筆で文字を書く場合も、独創的なものとか、そういうセンスが身に付いていない。

——自分なりの美意識がないということですか。

神林:そう。書道の先生の文字を見てその先生の有り様が見える、ということではなく、ひたすら先生の文字を真似することが目指されている。

——展覧会で入選するには、先生に気に入られやすい物真似作品を出したほうがよい、というのは絵画の世界なんかでも聞きますよね。

神林:高い出品料払ってね。大部分の人は展覧会で入選することが目的となっているから、自分の個性が出せている人は少ないですね。先生の真似が評価されて、個性的な作品は評価されにくいから。そういう個性ある人は(団体などから)出て行かざるを得なくて、書道界では活動しにくくなる。学校の習字の時間が面白くないのはそういうことだと思う。子供なんだからもっと思い切って自由に書かせるべき。そのうえで一つの方向を見出し、伸ばしてあげることが大事じゃないでしょうか。手間はかかりますが。

(聞き手/編集:加納佑輔|株式会社ソウサス意匠部)

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